その二十七
 1999年 10月 28日 木曜日 7:39:15 AM

 今日は高○のバカのライブのカラオケを作っていて今帰ってきたので相変わらず何のトピックもない(一日中つきっきりで気が抜けないので)

 トピックがなくとも、マニアなら常に何かを考えているものなのでは?
というかもしれないけど、ついつい何か変なこと。たとえば最近暇が出来ると考えていることと言えば、UAという人は本人、あれで良いと思っているのだろうか?どう思っているのだろう?というのがある。あれが美しさ(格好良さ)というものへのひとつの提言。というのであればだ、例えばナンシー関の想定する「日本の大衆」というものは随分変わったと言わざるを得ない。

 「私的にはナシだけどどこか私と違う世界では美しいんだと思う。うん。かっこいい・・・んだろうな」という人が大多数だとする。そしたらナンシーの世間は不動なのだが、じゃあ、じゃあ、アメリカの70年代に、アフリカン・ビューティーのモデルとかがモード誌に出始めた頃の、オクラホマ辺りも、実は、実際はそんなモンだったのかな?だとしたら・・・・などとUAちゃん一人で、考えは無限に広がってしまうというのに。

 コンビニで「SRS」という格闘技誌を買って、今、それを眺めながら書いて居るんだけど、この30回で書いたことの裏書きばっかりで一冊出来ていてしかもそれで格闘技界の最前衛誌なのだから、やっぱりミズモチとケンソーがカエってこないかなあ?とばかり思ってしまう(毎回書きながらそのことばかり考えている)電話で呼んでも良いけど、そんじゃつまんないしな。

 まあ、月並みだけど2000年を前にして過渡期なんだろう。そう思って読んでみると簡単なチャートが出来る。

 ターザン山本の、例の「宮沢賢治の詩みたいな文体による」小川ー橋本戦のレビューはもう完全に彼が過去の遺物に成ったことを残酷に我々に提示してしまっている。

 小川のインタビューは相変わらずオモロい。松本大洋とかの漫画を90年代初期に読んだ時のような感覚に襲われる。小川のここまでは、単なる序章に過ぎないだろう。

 引退後の前田日明は、ずっとタイトロープだった「ズレ感(ダウンタウンなんて人をバカにしてるだけでひとつもオモロない。あんなもんは芸じゃなくて、大阪のそこらのアンチャンの会話や。とかいう)」が、スター選手から管理職になった途端に思いっきり大爆発。今はちょうど「最悪」の状態で、5年後には偉大な格闘技バカ(大山倍達の様な)に育つと思う。前田は世間とのコミットメントが切れていることに気が付いていない。後は「ライターノリ」の面白がりの玩具の道を行く。

 石井館長はもう、政治家に成った方がよい。すさまじいまでの政治家魂爆発。もう現職ぎりぎりの政治家だ。今度のK-1のくじ引きも八百長じゃないし、佐竹はジャッジに文句があって、それはアンラッキーだった。と、きたもんだ。もうK-1はメジャーなスポーツなんだから、一般マスコミにこの件は叩かれた方が良いよ。絶対「八百長疑惑」って書かれるんだから。須藤甚一とかに「八百長なんですか?どうなんですか?はっきり答える義務があるんですよ」と言われてまで、今の、あまーいあまーい業界内プレスに対するような政治家発言が貫き通せた時、それは館長出馬の時だ。

 ヒクソンの幻想ももう終わったと思う。「ヒクソンが負けないままでも幻想は崩れてしまうだろう」と誰も予測しなかった、という点では凄いと思うけど・・・・と、この話はちょっとだけ面白そうだ。明日はこの話にしようっと。