加藤春江 1945年 夏からの続き


加藤春江

1945年 秋〜
「ピカの続き」


ピカの時、河原に10月の半ばまでいた。町野の叔母は持前のおしゃべりが講じて

何とか住ましてもらえる所を見つけてきてくれた。

それは野中の一軒家とも云えないが高橋と云う家の
大きな離れで、そこを戸板やムシロで4軒が仕切って借りた。

取りあえずそこの奥さんが
タタミの古いのを6枚持ってきてくれた。

久し振りのタタミの感触、嬉しかった。ただただ嬉しかった。

そろそろ寒かったがフトンがないので着のみ着のまま寝た。

戸が無いので夜空がくっきり見え月がこうこうと輝いていた。

それを見ながら寝ころんで両手でタタミを何度もこすった。

砂の上から初めてタタミの上に寝たとき、わけもわからず涙が出た。
なつかしいなーと思った。


被服廠でもらった航空用のチョコレートを一枚も食べたら3日3晩、頭がさえっぱなしでねむれなかった。

あまりに不思議だったので姉に聞いたら「そりゃ
ーそうよーねー飛行士がねむちゃーいけんもん」と云った。

物知りの矢野のおじさんに
聞いたら「ありゃー!春ちゃん、あの大きいのを一枚も食べたん。ありゃー一週間分のチョコでー」
と云われ二度びっくりした。

何一つお菓子は無いので何ヶ月もずっと大事にしまって持っていたのを

タタミの嬉しさで出して食べてしまったなー

ちいとづつ食べりゃーよかったと思った。


一週間目位に突然真黒い雨が降ってきだした。

夜がきても電気が無いので寒く皆んなくっつく様にして雨を見た。

皆んな「おかしいねー雨が黒いよー」と云っている。私も黒い雨を生まれて初めて見た。

その中、ポツポツあっちもこっちも雨がもり出し8時頃にはすわる所が無い位もり出した。

丁度傘が一本あったので一畳に5人一つの傘をさし、

そこの中へ頭だけでもぬらすまいと頭がこっつく程傘の中へ入れた。

雨はだんだんひどくなり道にあふれ出してきた。

何かガヤガヤとあっちでもこっちでもさわぐ声が聞こえてきた。

とうとう水があふれ出してきたのだ
どこでも山へひ難しようと大声でわめいている。

私達もそうしようと決めひざまでつかりながら、一列に並んでお互いに前の人の服を持ちながら歩いた。

やれやれ河原から、ようやく抜け出られたと思ったら、又かと思いながら歩いた。

でも一向に苦にはならなかった。ただ弟が可愛想で私は何度も後を振り返った。

弟は歯をくいしばり少し涙をためていた。

無理もない。両親もおらず住む家もなく、食べる物も充分なく


その上、ピカの日から着たきり雀でシャツにわいたシラミを

畳の陽のあたる草っぱらでシャツをひっくり返し、

ぬい目の所にピカピカと光ったシラミのタマゴを一つづつプツプツとつぶし、

時にはピチッと音がしてシラミの血が顔に飛んできた。

とってもとってもわいてきて、一日中しらみ取りに明けた。

私も私の頭の中にしらみがわき、
姉が木くずを取ってきてはめげかかった釜でお湯をわかし、

チリチリする程に熱いお湯の中へ、すっぽり頭をつけ、

両手で洗うと黒いカタイシラミがお湯一面にひろがった。

頭をふくと姉が

「春ちゃん!光が当たるとシラミの卵がピカピカ一っぱい髪についとるよ」と云う。

私は背中がぞくぞくとして寒かった。

生まれて初めての事にいやだったが、姉は自分のひざに私の頭を置き

上手に一つづつピチピチとつぶしてくれた。

しらみ取りしか用事が無いので毎日毎日ハダカになって一ヶ月近くも取った。


外を歩いている人の背中を見てびっくりした。

どの人もどの人も背中が真黒
それがかすかに動いている。

おかしいなと思って、よく見ると皆ハエだ。

歩く度にハエが2、3匹飛んでは又群に入っている。

「正実!きもちがわるいねーハエだわけよー」

「お姉ちゃんの背中もよー!」

「えー?」

私は気持ちが悪いので体をゆするとハエが一せいにパッと飛んだ。

私はいそいで家の中に入った。

無理もない。あの暑い中に死体が何万ところがっているのだからウジがえわくのも無理はないと思った。
今でもあの光景を思い出すとぞっとして寒気がする。
今思えばピカから半年位、配給物ばかりでお金を使うと云う事は一度もなかった


その当時バラック一軒建てるのに千五百円

被服廠で退縮金4月-7月 4ヶ月で4千五百円ももらった。 

家族6人の中でお金をもっているのは私だけ。
だから町野の叔母がよく貸せといっては私のお金を取った。

兄が戦地から帰った時は、もうそのお金はなかった。

兄にその事を云ったら

「春江!えーじゃないか。あーようなおばさんでも今まで2人をみてくれたんじゃけー、ほっとかれてみーやー」と
云った。でも私はくやしかったが兄の言葉に心が安らいだ。

兄が「ここでいつまでもやっかいかけちゃー悪いけーわしの戦地の友人が古江におるけー

そこの2階を貸してもらう事にしとるけーそこへ3人で行こう」と云い、

その日の夕方、姉に別れを告げ
3人は牛田から古江まで歩いて行った。


兄は毎日、巳斐駅のヤミ市に立ちマンガのネタ拾いをし、セッセと廿日市新聞のマンガを書き、私と弟を食べさせてくれた。


兄が中支で友達になった古江の横田さんの二階を兄が頼んで借りる事になり
叔母や姉と別れを告げ3人は牛田から古江まで少ない荷物を持ち、
ただひたすらに無言のままとぼとぼ歩いた。
荷物と云っても兄が中支から持ってかえった飯ごうとか下着とか
何一つ目ぼしいものはなかったが、今から生きて行く3人には貴重品だった。

夕方横田家についた。その家は家族4人でおじさんは戦死しおばさんと男3人の兄弟、
家は昔の家で広く桃山のそばだった。
ガヤガヤと声がするので裏を見ると
やはり私達同様の父母を亡くした親戚の子供ばかりの集団が一組先に来てはなれを借りていた。
皆んなは私達3人の新顔をぺちゃくちゃ云いながらかえわるがわるのぞき見していた。
私が頭をぴょこんと下げると相手の女の子も白い歯を出してニコッとおじぎをした。

そこのおばさんは畠から帰って来たのだと兄に話した。
見ると日本手ぬぐいを頭にかぶり大きなドングリ目玉で3人をじろじろ見た。
とてもこわいおばさんに見えた。いやな気分がした。
今ことわられたら勿ち今夜から寝る所もないので、私は必死になっておばさんと兄の話のやり取りを聞いていた。
「うちにも、親戚の子等が両親を亡くしてよけいころがんどるけー」と云っている。
兄はペコペコ頭を下げ「その中にどこか見つけるから、それまでおいてやって下さい。
妹や弟もおる事だしどこも行く所がないから」と涙を浮かべ、拝む様に何度も3人は頭を下げた。
でもおばさんはなかなか承知しない。

途方にくれた3人は暗い土間に立ちすくんでいた。
おばさんはきたないものでも見る様に3人をにらみつけて
「そーよー云われても、うちは困るんよー」と大きな声ではきすてる様に云う。
私は唇をかんでじっと泣くのをこらえた。
その表で土肥君来たんねーと長男の友達がニコニコ顔で入って来た。
兄はすくわれた様にニコッと笑って頭を下げた。

横田さんはお母さんの方を見て
「お母さん土肥君とは支那で無二の親友じゃったんよー。引き上げて
もし家が焼けて行く所がなかったら、いつでも尋ねて来てくれ云うて云うとったけー
きちゃったんじゃけー」
「そりゃそうかも知れんが、今でも10人になったのにどうするんねー。わしゃー知
らんけー、お前がええようにしんさい」
と云うなり頭の手ぬぐいをむしり取る様にして、おいおい泣きながら足早に去った。
横田さんは3人の方を向いて頭をかきながら「土肥君、ごめんね
おやじが戦死して女手で3人育てたけー気が強うなって」と云いながら3人をうながした。

3人は半ベソでその後につづいた。土間のそばの粗末な階段を上がった。
うす汚れた木の戸をギイッと開けると、今までの暗さとはちがって夕日がタタミに射していた。
ただ嬉しかった。弟と私はペタペタとタタミに座った。
兄は友達と2人でガラス戸を開け夕日の射す山を見ながら、
なつかしそうに支那のとても寒かった話を笑いながら話していた。
私はそれとなく両手を後につきのけぞる様にして話を聞いていた。
それは寒くて川がこおりつき、米をとぐのに指が凍りつき、困ったとか
鼻水をたらしていたら霜柱の様に凍るとか、
初めて聞く話なのでびっくりした。
あの無口で人と話さなかった兄がよくしゃべる様になったものだなーと感心した。
大分たって横田さんが2人の方を向き
「よう牛田から古江まで小さいのに歩いてきたねーつかれたでしょう」
と云いながら押し入れからドンドン布団を出してくれた。

どれも今まで見た事もない様なモンペと同じカスリの布団だった。
まともに敷布団をしきまくらをして寝るのは何ヶ月ぶりだろうと思った。
朝ごはんを少し食べただけだったがおなかのすくのをこらえ
その夜は何も食べずに寝た。

朝目がさめると兄の話し声が聞こえた。それは友達が古江から草津まで歩くと
停留所近くにおダンゴやさんがあり4ツが10円で売っていると教えてくれた。
兄が私に10円玉を一ツ渡しながら「春江この10円を持って、草津駅の近くの昔大石餅を売っとった
店にダンゴがあるそうなけー こうてこいやー」
「うん草津云う所は行った事がないがこの道をまっすぐ行きよりやーわかるよねー」
「うん」
「ほいじゃー行ってくるけー」
昨日の朝少し食べただけなので外の陽がまぶしく頭がぐらぐらした。
わたしは気分をしゃんとせんにゃーと立ちどまり空を見上げた。悲しくなった。
本当に売りよるんないのとすぐ思った。

私は草津までの道を一生懸命10円玉一つをかたくにぎりしめて歩いた。
食べてないのと暑いので汗びっしょりになった。
その頃はいくらお金をもっていても、郵便局でも銀行でも印のついた紙を持っていって、
世帯300円、後は200円と1ヶ月500円しか出してくれなかった。
兄はきちょうめんな人なので、500円を30日で割り、配給物のお金、食べるお金、と細かく分けていた。

やがて草津駅についた。あたりを見まわしていると見えた。
白い大きなカンバンに黒く太い文字で大石モチとかいてある。
私は急いで店の前に立った。
手ぬぐいを頭にしたおばさんが一人4ヶまでよと云う。
私はだまって10円玉をさし出すとおばさんは
「早うこにゃ―売り切れるんよ」と白々しい声で教えてくれた。
「ハイ」と小さく云う。

小さな四角な新聞紙にむぞうさに手でつかんで黒いツブツブの小さい丸い一寸白い粉のついたものだった。
でも食べられるものが手に入ったと云うだけで嬉しかった。
私はたいぎいのも忘れ、元来た道をはしる様にして帰った。
今考えてみれば古江から草津まで大分の道のりだ。
2階につき兄に
「あったよ」
「あったか」
渡した。
開けて見るなり兄は
「これがダンゴ?」
「うん」
兄はていねいに下のタタミの上においた。
3人は目を輝かせダンゴを見た。
兄はいつもお母さんがオヤツを分けてくれた様に、
3人の前にチリ紙を一枚ずつ置き、ダンゴを一つづつ乗せ、立ち上がって切り出しナイフを出し
後のこり一つのダンゴを目を皿の様にして3等分し、
小さいはし切れをダンゴのそばに一つづつ、ていねいに置いてくれた。

3人は一口かじってびっくりした。
それは味もすっぱもなく、何かワラ屑をかんでいる様に思えた。
生まれて初めて食べる味で、ただ腹の足しと云う外なかった。
でもおなかがすいているので3人は食べた。
私はいつも兄におこされ10円玉一つにぎりしめては、毎朝草津までダンゴを買いに行った。

兄はコウリの中の軍隊の靴下にお米を2合づつ入れて、靴下のゴムの所をしぼってむすんでいた。
3足の靴下に片方2合ずつ入れていた。
その当時3人で一ヶ月一升二合(今の約1k)が、配給ヤミで買わない限り、これだけ。
兄はまじめな人なのでヤミ米を買わず、一週間に一度か二度、貴重品でも出す様に
コウリの中から片足の靴下を出し私に渡した。

私は横田のおばさんに小さいナベを借り米をとぐ。一粒でもこぼすまい必死でといだ。
七輪を借り山の松葉を拾ってたくのだが、入れるハシから燃えて灰になるので
途中で又拾いに入ってきたりで、なかなか炊けずいつも泣きそうになった。
おばさんに気がねなので家を出て外の山のそばでいつも炊いた。

怖いおばさんなので、用事のあるとき以外は下におりず、いつも3人は一日中ねていた。
起きてもする事がなく動けばおなかがすくので、なるべくじっと寝ていた。
兄は無言で天井をにらみつけていた。
私が何げなく横を向き兄の顔を見ると、兄はそれでなくても大きな目にいっぱい涙をため
それが時々頬をつたい、手の甲でこすっていた。
その頃は皆んな無気力状態だったので何も感じなかったが、
今思えばたぶん私や弟が不びんに思えたのだろうと思う。

3日に一ぺん配給ですよー、とカネをたたいてまわる。当番制で順番がまわって来た。
当番に当たったら町内会長さんの所へ行き、配給ものを取ってきて9軒で分けるのだ。
何ヶ月も芽の出た青いジャガイモばかり、一辺にイモが15コ位あった。
それをいつも3べんか4へんかで食べた。
料理するにも塩だけで何もないので、ゆがいて塩をつけ一人が一つ半か二つそれが一食だった。
時々下におりて、何げなく見ると横田のおばさんが火吹竹を吹きながら大きな釜でごはんをたいていた。
私はうらやましくてならなかったが兄にも弟にも云わなかった。
大ていの人は私達と同じ生活だったから、ただ親の生きている人はどこからか米や野菜を運んできていた。
この頃は田舎の人はいいなーとうらやましかった。

一ヶ月たった頃だった。
下で大きな声がするので耳をすますと、あのこわいおばさんの声がした。
「誰じゃろーうちが畠へ行っとる留守に帰って見りゃー、米がへってとるが誰が盗みよるんかいのー」
「お母さん何を云いよるんなー、誰も盗むもんかいええかげんにしんさいよー」
「いいや誰かがいつも盗みよる」
私に云われている様で胸がドキドキした。
私は兄の顔を見た。
「春江、しんぱいせんでもええ。うちの子はくさっても鯛じゃけー。盗む子はおりゃーせん。
わしが一番よう知っとる。多分親戚の子が5人おるけーあれ等じゃろけー。
いつかわしが友達に云うたるけー」
私は無言でうなだれて泣いた。悲しかった。くやしかった。

おばさんは毎日畠から帰るなり、2階の方を向いて「盗んだ、盗んだ」とおらびたくった。
私はただ堪えた。その度に兄は優しくなだめてくれた。
あまり毎日云うので兄はたまらなくなり、私が可哀想になったのだろう、友達に話してくれた。
親戚の子が毎日盗んで食べていた事がわかった。
それなのに、おばさんは親戚の子では無く他人の私達だと云いはった。
でも長男は必死でお母さんを説きふせてくれた。半信半疑のままでこの事は終り。
私は嫌でならなかったが、或る日とうとう現場を見つけた。

5人の親戚の子の前で
「よもやおばさんはあんたらとは知らなんだ。なんで一言くれー云われんのねー」と泣いた。
おばさんもおばさんだ。
その子供達も私達も食べ物がないのに、平気で自分達はご飯を食べているのを見れば
盗みたくなるのに、と私は可哀想になった。
5人の一番上の女の子に
「うちにゃー盗人を飼うとくわけにゃいかんけー、友達の家えでも
泊めてもらいんさい」ときつい声で言っていた。
みんなうなだれて聞いていた。
私がどうしてあげられる事も出来ないのがくやしかった。
丁度、半年くらいこんな生活が続いた。
私は性も根も尽き果てヤケ気味になっていった。



加藤賢崇2016.7.19 [ 愛謝 紅壇鼎さんのご協力を得て、その後の母の手記、原爆投下後、終戦後の市民生活について書かれた部分をアップしています。この後は、戦時中の緊迫感とはまた違ったニュアンスになりますが、ご興味のある方は読んでみてください。よろしくお願いします。
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